仕事で胎内川の下流に行ったので写真を撮ってきました。
ちょっと驚いたのは、その水の綺麗さ。
河口からわずか1kmほどの距離で、
この透明度です。
デジカメの画像だとわかりにくいですが、
実物を見ると飲めそうなくらい澄みきってます。

画像に写っている橋は、胎内大橋。

ちなみに胎内と名のつく橋は4つかあります。
その4つとは、胎内大橋、胎内川橋、胎内平橋、新胎内橋です。
ここでプチ胎内検定クイズです!
Q.どの橋がどこに架かっているかわかりますか?
数字とアルファベットを結び付けてください。
1胎内大橋、2胎内川橋、3新胎内橋、4胎内平橋
A国道113号線、B県道3号新潟新発田村上線、C県道53号胎内二王子公園羽黒線
D宮久大橋からロイヤル胎内パークホテルに向う市道
(下越スポーツハウスに一番近い胎内川本流にかかる橋)
画像が若干ヒントです。
正解は一番下で。
話をもとに戻します。
川の長さが短いにしても、
また雪解け水で水が清くなっているにしても、
この透明度はすばらしいです。
日本全国に誇れる清流であることに間違いはありません。
さて、今日はその胎内川の名前の由来について考えてみたいと思います。
(なお、今回は長いので3回に分けてアップします。)
諸説あるようですので、いくつか見てみましょう。
まず、アイヌ語説。
「ティナイ」=「清い水が流れる所」に由来するという説。
冒頭、河口近くでも清流だと書きましたが、
正にその通り。清い水が流れる川であります。
が、疑問があります。
アイヌ人がここにいたのでしょうか?
アイヌ人がいたというのは聞いたことがありません。
言語学的見地から考えると、
アイヌ語の地名の南限は、
山形・秋田の県境から仙台平野にかけてというのが、
現在の定説となっているようであります。
それに従えば、アイヌ語の起源ではないということになります。
違うのか?
しかしアイヌという言葉自体、古くから使っていた言葉ではないような気がして
調べてみました。
歴史を6世紀までさかのぼってみると、
アイヌ人という言葉は出てきませんが、
この地域に「蝦夷(えみし)」という人たちがいたそうです。
その「蝦夷」に対する備えとして、
大和朝廷では城柵(じょうさく)を築いたそうです。
城柵とは、行政機能を併せ持った防御施設のことだそうで、
戦国時代のお城のようなものとお考えください。
越の国(新潟)には3つの城柵があったそうです。
?大化3年(647 年)渟足柵(ぬたりさく)が現在の新潟市沼垂付近に設置された。
?翌、大化4年(648年)には磐舟柵(いわふねさく)が現在の村上市岩船付近に設置。
?斉明天皇4年(658年)には都岐沙羅柵(つきさらさく)という名が『日本書紀』に記されているが、いつどこに設置されたのかは全く不明。
都岐沙羅柵がどこなのかは、かなり論争があります。
伊藤國夫氏のように旧中条の地ではないかと主張される方もいます。
都岐沙羅柵の場所はともかく、
現在の沼垂と岩船で「蝦夷」に備えたということですから、
胎内にも当然いたのでしょう。
そして、この「蝦夷」=アイヌ人と考えるとアイヌ語説も肯けるものがあります。
問題は「蝦夷」=アイヌ人と言えるかどうかです。
中世(だいたい板額御前の時代から戦国時代まで)以降では、
蝦夷=アイヌ人だという意見が主流だそうです。
大和朝廷の時代はどうなんでしょう。
実はそれはわかりません。
当時はもっといろんな民族がいたのかもしれませんし、
単にその地に住んでる人をそう呼んだだけかも知れませんし、
7世紀中ごろでどうだったかは、実際わかりません。
なんとも歯切れの悪い終わり方ですみません。
詳しい方がいたら是非教えていただきたいと思います。
本当のところはどうなんでしょうかね?
しかしまぁ、由来はともかく、
実物の胎内川は、アイヌ語の意味もぴったりな、
「清い川の流れ」ですね。

こちらは新胎内橋の上流。
小さいですが、新潟製粉第2工場が見えます。
クイズの答え
1-A 2-C 3-B 4-D
超難問ですね。
全部わかったらかなりの胎内ツウですね!
ちょっと驚いたのは、その水の綺麗さ。
河口からわずか1kmほどの距離で、
この透明度です。
デジカメの画像だとわかりにくいですが、
実物を見ると飲めそうなくらい澄みきってます。

画像に写っている橋は、胎内大橋。

ちなみに胎内と名のつく橋は4つかあります。
その4つとは、胎内大橋、胎内川橋、胎内平橋、新胎内橋です。
ここでプチ胎内検定クイズです!
Q.どの橋がどこに架かっているかわかりますか?
数字とアルファベットを結び付けてください。
1胎内大橋、2胎内川橋、3新胎内橋、4胎内平橋
A国道113号線、B県道3号新潟新発田村上線、C県道53号胎内二王子公園羽黒線
D宮久大橋からロイヤル胎内パークホテルに向う市道
(下越スポーツハウスに一番近い胎内川本流にかかる橋)
画像が若干ヒントです。
正解は一番下で。
話をもとに戻します。
川の長さが短いにしても、
また雪解け水で水が清くなっているにしても、
この透明度はすばらしいです。
日本全国に誇れる清流であることに間違いはありません。
さて、今日はその胎内川の名前の由来について考えてみたいと思います。
(なお、今回は長いので3回に分けてアップします。)
諸説あるようですので、いくつか見てみましょう。
まず、アイヌ語説。
「ティナイ」=「清い水が流れる所」に由来するという説。
冒頭、河口近くでも清流だと書きましたが、
正にその通り。清い水が流れる川であります。
が、疑問があります。
アイヌ人がここにいたのでしょうか?
アイヌ人がいたというのは聞いたことがありません。
言語学的見地から考えると、
アイヌ語の地名の南限は、
山形・秋田の県境から仙台平野にかけてというのが、
現在の定説となっているようであります。
それに従えば、アイヌ語の起源ではないということになります。
違うのか?
しかしアイヌという言葉自体、古くから使っていた言葉ではないような気がして
調べてみました。
歴史を6世紀までさかのぼってみると、
アイヌ人という言葉は出てきませんが、
この地域に「蝦夷(えみし)」という人たちがいたそうです。
その「蝦夷」に対する備えとして、
大和朝廷では城柵(じょうさく)を築いたそうです。
城柵とは、行政機能を併せ持った防御施設のことだそうで、
戦国時代のお城のようなものとお考えください。
越の国(新潟)には3つの城柵があったそうです。
?大化3年(647 年)渟足柵(ぬたりさく)が現在の新潟市沼垂付近に設置された。
?翌、大化4年(648年)には磐舟柵(いわふねさく)が現在の村上市岩船付近に設置。
?斉明天皇4年(658年)には都岐沙羅柵(つきさらさく)という名が『日本書紀』に記されているが、いつどこに設置されたのかは全く不明。
都岐沙羅柵がどこなのかは、かなり論争があります。
伊藤國夫氏のように旧中条の地ではないかと主張される方もいます。
都岐沙羅柵の場所はともかく、
現在の沼垂と岩船で「蝦夷」に備えたということですから、
胎内にも当然いたのでしょう。
そして、この「蝦夷」=アイヌ人と考えるとアイヌ語説も肯けるものがあります。
問題は「蝦夷」=アイヌ人と言えるかどうかです。
中世(だいたい板額御前の時代から戦国時代まで)以降では、
蝦夷=アイヌ人だという意見が主流だそうです。
大和朝廷の時代はどうなんでしょう。
実はそれはわかりません。
当時はもっといろんな民族がいたのかもしれませんし、
単にその地に住んでる人をそう呼んだだけかも知れませんし、
7世紀中ごろでどうだったかは、実際わかりません。
なんとも歯切れの悪い終わり方ですみません。
詳しい方がいたら是非教えていただきたいと思います。
本当のところはどうなんでしょうかね?
しかしまぁ、由来はともかく、
実物の胎内川は、アイヌ語の意味もぴったりな、
「清い川の流れ」ですね。

こちらは新胎内橋の上流。
小さいですが、新潟製粉第2工場が見えます。
クイズの答え
1-A 2-C 3-B 4-D
超難問ですね。
全部わかったらかなりの胎内ツウですね!